特製カツ丼いせ屋

No.09

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海軍の味を継ぐカツ丼は

100年の歴史を映して

今日も誰かの故郷となる。

絶メシの似合う街――と言われても、言われた街の方はフクザツかもしれないが、しかしわれら絶メシフリークにとっては魅力的でしかない街が広島にはいくつも存在する。戦艦「大和」誕生の地として知られる港町・呉市もまさに絶メシ・ワンダーランド。昭和のかほりのする商店街に、かつての栄華と哀愁を刻んだ味わいの強い店構え&面構え。人口流出や雇用創出といった“今そこにある危機”はひとまず忘れ、今日だけはこの愛おしき街の“まだそこにある味”を噛みしめたい。

(取材/絶メシ調査隊  ライター名/清水浩司)

ビフカツにデミソース
ここだけのオンリー丼

ライター清水

「こんにちは、絶メシ調査隊広島支部隊員番号001の清水浩司です。本日は広島県の呉に来ております。広島市からおよそ20キロ南東に離れた港町。かつては日本海軍の鎮守府が置かれて大いに栄え、戦後は海上自衛隊の街として、造船の街として知られております。昨今は『この世界の片隅に』『孤狼の血』『男たちの大和/YAMATO』といった映画の舞台になったことでも有名ですね」

いいところなんで

来てほしいなぁ、呉

 

さて、そんな呉だが近年は造船業の衰退などもあり、どうも街に元気がない。ほんの140年前までは静かな漁村だった地域がモーレツな発展の後、再び衰退……しかし裏を返せば、それはわれら絶メシ調査隊の仕事が数多く眠っているということでもある。以前の繁栄の中で愛され、今は風前の灯火となっている店や味をひとつでも守りたい……そんな使命を背負って本日訪れたのは、呉本通りとクロスするパルス通りに建つ「いせ屋」である。

ライター清水

「絶メシ調査隊です。本日はいつもより使命感多めでやって来ました」

加納さん

「はい、いらっしゃい。私はこういう者でね……(名刺を差し出す)加納充訓、79歳」

ライター清水

「ありがとうございます。(名刺を見る)創業大正10年って書いてますね。大正10年というと……」

加納さん

「(さらっと)オープンは1921年。今年でちょうど100年です」

ライター清水

「満100歳ってめちゃくちゃ縁起いいじゃないですか!」

加納さん

「僕のおじいさんが100年前にこの店をはじめたとき、その頃はほとんどが和食でね。『東京や大阪に比べたら呉は田舎じゃけど、おいしい洋食を食べていただきたい』いうことで“田舎洋食 いせ屋”と付けたんです」

ライター清水

「その洋食の中でも本日は店の一番人気、特製カツ丼をいただきます」

加納さん

「カツ丼は今から70年くらい前、お客さんから『いせ屋さん、おたくのビーフカツはおいしいし、ハヤシライスもおいしいんじゃけど、今日は時間がないけえ一緒にしてぇや』ってリクエストがあって。それで『じゃあやりましょう』って出したらおいしいってことになったんです。そこからウチのカツ丼はこれオンリーですよ」

ライター清水

「さっそくその調理をお願いします!」

ライター清水

「カツ丼といってもトンカツじゃなくてビーフカツを使うんですね」

加納さん

「日本を東西に分けると、肉といえば関東は豚肉、関西は牛肉がメインなんです。で、普通のカツ丼は卵とじかソースカツ丼のどっちかでしょ? でもウチはビフカツとデミグラスソースの合体ですから、オンリーなんです」

ライター清水

「具も味付けもダブルでオンリーです」

加納さん

「呉の方はカツ丼っていうとウチのカツ丼しか知らんけえ、進学や就職で東京に行った人は『ヘンなもんが出てきた!』ってビックリするみたいですよ(笑)。そういう人には『あっちが普通で、ウチのが変わっとるんよ』って教えてあげます」

ライター清水

「呉でしか食べられないオリジナルカツ丼ですね」

加納さん

「ないと思うとますます食べたくなるんか、東京や大阪から汽車で帰って来た人は、家に帰る前に駅からまっすぐここに来られる方も多いんです。それで『やれやれ、呉へ帰って来た気になるわ』って」

ライター清水

「まさに故郷の味ですね!」

ライター清水

「牛肉が薄いからか、あっという間に完成です」

加納さん

「私のおじいさんは海軍のコック長をしとった人でね。海軍じゃけえとにかく料理を早う作らんといけんで、それでビーフも薄いんです。呉のうどんも早う茹でられるように細うどんでしょ?」

ライター清水

「なるほど、すべてが呉ならでは。理に適ってます」

特製カツ丼(1,320円)完成!

親子3代100年に渡る
いせ屋の歴史の物語

実食は和風の小上がりで行わせてもらう。

ではさっそくいただきます!

ライター清水

「もぐもぐもぐ……ああ、カツがサクサクですね。薄い上に牛肉でやわらかいから、安手のトンカツのように『く、食いちぎれない!』ってことがない。そしてこのデミグラスソース……実になつかしい味です」

加納さん

「デミグラスソースはスープストックに砂糖、しょうゆ、ケチャップ、コショウ……それにラードで炒った小麦粉を混ぜてます」

ライター清水

「ウン、ウン、ウン……この味は記憶が瞬時にリバイバルする“原風景”ならぬ“原洋食”ですよ。またビフカツを噛んだときにじゅわーっと出てくる脂がデミと混ざって、ごはんにぴったり。これはフォークが止まらない!」

加納さん

「カツも口に合うように切ってあるから食べやすいでしょ?」

ライター清水

「そして効いてるのが大根とキュウリのお漬物。大振りで食べ応えあります」

加納さん

「口直しでサッパリしてもらおう思うてね。毎日ぬか床に付けて浅漬けにしとるんです」

 

あー、食った食った。今の気持ちを呉で撮った写真で表現するなら――

呉、サイコーだよ……

ライター清水

「お父さん、壁に古い写真が飾ってありますけど、あれは開店時のものですか?」

加納さん

「あれはいせ屋がはじまる前、大正元年じゃけえ110年前の写真。写っとるのは呉の洋食屋の日英館。私のおじいさんは長い休暇のときは戦艦から降りて、日英館の若いコックに料理を教えとったんです。その日英館をやってた方が大正10年に辞められて『加納さん、あんたがやってや』ってことになり、それでこの店がはじまったんです」

ライター清水

「その話ゆっくり聞かせてください!」

そしてわれわれは色あせた1枚の写真から、呉100年の歴史をたどるタイムトラベルに出るのだった。

この呉劇場通りの片隅で
たくさんの人が笑っていた

これまでの話を整理しよう。まず、加納さんのおじいさんである勇太郎さんは日本海軍でコック長をやっていた人物。日露戦争では戦艦「浅間」に乗り、日本海海戦にも出ていたという。しかし第一次大戦後のワシントン海軍軍縮条約で乗っていた戦艦「摂津」が廃艦に。そこで大正10年、それまでコックたちに料理を教えていた日英館を引き継ぎ、いせ屋として再出発する。この写真は、ありし日の日英館を写したものだ。

ライター清水

「100年前の呉ってものすごく栄えてたんでしょうね」

加納さん

「その写真見りゃわかるけど、日英館は建物の上にビアガーデンを作っとったんです。ビアガーデンは明治42年に東京ではじまって、その3~4年後にもう呉にできとって。呉には海軍があったから情報も早かったんでしょうし、ハイカラな街だったんでしょうね」

ライター清水

「本当だ。なかば無理やり屋根の上にテラス席を増築してる!」

加納さん

「あと、建物の後ろに山が写っとらんのわかる? 呉はどう撮っても後ろに山が入るのに、山が消されとるです。それは砲台の位置を敵国に知られんようにするためで、当時は軍事機密だったんでしょうね」

ライター清水

「その話、『この世界の片隅に』で読んで知ってます!」

コレですよね、コレ。

すずさん、ガチで呉ですよ!

 

加納家の物語は続く。勇太郎さんがいせ屋をはじめる一方、息子の光治郎さん(充訓さんの父)も海軍のコック職に。光治郎さんは呉の鍋山砲台での勤務だったが、徴兵検査に行ったとき「おまえ加納勇太郎の息子か? じゃあ遠くへ行っちゃいけんわ」ということで地元勤務になったという。海外に赴いた同僚の多くが戦死したことを考えると、充訓さんが今ここにいるのは祖父の威光のおかげかもしれない。

 

そしてその勇太郎さんも1945年7月1日の呉大空襲で亡くなってしまう。海軍に長くいた勇太郎さんは「日本はアメリカなんかに負けやせん!」と最後まで防空壕行きを拒み、逃げ遅れてしまった。そのとき充訓さんは3歳、母の実家のある江田島に疎開していた。

ライター清水

「江田島から帰ってきたら、呉は焼け野原ですか?」

加納さん

「帰ってきたら進駐軍がやってきて、進駐軍相手のダンスホールも建ちはじめてね。今の市民広場、昔の練兵場跡に行ったら、進駐軍の人が『ボーイ!』って頭をなでてくれて、チョコレートやチューインガムをもらいましたよ」

ライター清水

「そしてお父さんの光治郎さんがいせ屋を継ぎ、名物のカツ丼が生まれたのが1950年前後」

加納さん

「そこからは朝鮮動乱があって、船の補修やタンカーの建造で街は一気に賑わいましたね」

ライター清水

「充訓さんがお店に入ったのはいつですか?」

加納さん

「中学校の頃から店は手伝いよったけど、1964年に調理場に入っておやじに教えてもらうようになりました」

ライター清水

「もう充訓さんの代になって半世紀以上、そこから呉の街はどうですか?」

加納さん

「さびれる一方ですね。特に街の中心にある古い商店街は全国的に苦しんどるでしょ。ここも今はパルス通りって名前じゃけど、昔は“劇場通り”って呼ばれとって。このへんは戦前は芝居小屋、戦後は映画館がいっぱいあって、工廠が休みのときは親子で余所行きを着て、芝居を見て、いせ屋の洋食を食べて帰るのが一番ハイカラな生活じゃったんです。今はショッピングセンターの時代じゃけえね」

ライター清水

「呉の街自体も元気ないですよね」

加納さん

昔は人口40万人で、広島に負けんくらいだったんじゃけどね。それが向こうは原爆で、こっちは空襲でやられて、海運も外国に負けてしもうて。今は人口もまわりの島を合併しても20万人おるかおらんか。ここに路面電車が走っとったなんて信じられんでしょ」

ライター清水

「呉のことは好きですか?」

加納さん

「ずっとここにおるからわからんですよ。外へ出た者は帰ってきて灰が峰を見たら『なつかしい~』って言うけど、私にしてみりゃどうってことない普通の山(笑)。ただ、そういうお客さんは『寝とってもいせ屋のカツ丼が夢に出てくる』って言うんです。離れてるからなつかしい。そんなもんなんでしょうね。故郷への想いと味がくっついて、大きくなっていくんでしょう」

ライター清水

「だからこの味、ずっと続いてほしいんです! 跡継ぎの方はいるんですか?」

加納さん

「孫が7人おりますから、誰か1人くらい『おじいちゃん、僕が継ぐよ』って言うてくれればいいがなって思いよるんです。それを待ってみようと思います」

ライター清水

「厳しそうならいつでも言ってください。われら絶メシ調査隊がチカラになりますから」

加納さん

「今はもう細々ですけどね。それでも『もういせ屋つぶれとるかと思ったら、まだあったわ』って入ってきて、それで食べたら『ああ、おいしかった。昔のまんまじゃった』って言ってくれるお客さんがひとりでもおっての間は頑張らんといけん、って夫婦で言いよるんです」

加納充訓さん、1942年8月19日生まれ、現在79歳。呉で生まれ、呉の街中で育った生粋の呉っ子。2つ違いの奥さんの愛子さんと連れ添って55年。こんな2人が守ってきた呉の庶民の思い出の味、それは絶対なくなってほしくない――と店を出た後、強く思う。

たった一度食べただけかもしれないけど、そのやさしい味と2人の笑顔が“心の故郷”に貼り付いて離れないのだ。

 

また食べたいな、あのカツ丼。

取材・文/清水浩司

撮影/キクイヒロシ

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